フォトコンテストを通じて
好きなことを仕事にするというのが、大変なことであると悟った。
好きなのに妥協が許されないのである。
自分の足りていない部分をしっかり見つめなくてはならないし、相手の優れた部分にも目を向けなくてはいけない。
流行を追い続ける必要もある。
好きで、ずっとやっているのに、なお届かない世界があるという絶望感が凄まじい。
皆の才能が怖くなる。
新しいものを作りたいと感じ、ひたすら頭を悩ませひねり出そうとするが、思いついたものは、調べれば大体出てくるし、なんならもっと上を行っている。
フォロワーが100位の小さいアカウントが、とんでもない写真をアップしているのを見かけると、こんな素晴らしい作品でさえ埋もれるのかと思うし、同様に埋もれているであろう数多の素晴らしい作品の数を考えてゾッとする。
たった1週間でこれだけのことを分からされ、正直かなり落ち込んだ。
好きを仕事にしている人、本当に素晴らしいし尊敬してます。
米津玄師さんとお会いしてお話したすぎる話
突然だが、僕は米津さんが好きだ。
彼の考え方や作品、生き方、話し方、歌っている姿等々、全てが好きだ。
ライブには好きになって以降毎回申し込んでいるし、新曲は出た当日に必ず聞くし、曲について話しているラジオも聞くしインタビューも読むし、アルバムやシングルもフラゲ日にはゲットしている。
「POP SONG」に関しては共感しすぎて考察記事まで書いてしまった。(↓)
好きなアーティストは米津さん一択だし、あこがれの人も米津さんだし、お気に入りの服もライブで買った服と、数年前のユニクロとのコラボTシャツである。
と、このようにここ数年ずっと好きで動向を追いかけているのだが、1年ほど前からこの気持ちに変化が現れた。
一体どんな変化なのかと言えば、単なる追っかけから、米津さんに一度お会いしてお話してみたい追っかけになったのである。
・・・勘違いしないでほしい。もちろん危険な意味ではない。
ただ、飲み会に行って親しい人と談笑するように、米津さんと話してみたいのだ。
一度でいいからお話をして、米津さんの考え方を全身に受け止めて、圧倒的な人間力を見せつけられてみたいのだ。
もちろん、仮に一度見せつけられて圧倒されれば、「失礼いたしました。もう二度と現れません。」となる。
万が一にでも気に入っていただけるならそれはそれで万々歳であるが、とにかくチャンスが欲しいのである。
だが、分かっている。
そんな人間はごまんといるということを。
そして米津さんは1ファンを特別扱いするような人ではないということを。
ということで、僕は正攻法を選ぶことにした。
とにかく実績を積み上げて、人にこの話をし続けて、気持ちを叫び続けて、遠い将来米津さんにお会いする機会をもらうのだ。
そのために今後も、はてなブログ、医学生かずの呟き、フォトコンテスト等々(もちろん本業も)あらゆる分野を頑張るつもりなので
そして定期的にこのような記事を書くつもりなので
この記事が目に留まった方は、米津さんに「白い壁に浮き出ている茶色いシミ位に認知されたいブロガー医学生がいる」ということをお伝えください。
創作の難しさ
ここ数日、フォトコンテストやらキャッチフレーズコンテストやらに応募しまくっている。
来年は忙しすぎて目が回っている未来が見えるので、とにかく学生の内にやりたいことをやっておきたい&何かの実績を作っておきたいという魂胆であるが
連日必死に取り組んでみて感じたのが、創作がいかに難しいかということである。
これまで自分なりにテーマを定めて写真を撮ったり、文章や一節を書いたりなんてことはあった。
基本毎日それなりに面白く読みやすい文章を書いているつもりだし、どこかに出かければ必ず写真も撮る。
それも自分が満足するまで撮り続ける。(酷い時には同じ場所で1時間ほど撮り続けたこともある)
でも、「評価してもらう」とか、「決められたテーマに合わせて」となると勝手が全く違うのだ。
自分がいいと思う点を相手がいいと思ってくれるのか、そこに独創性はあるのか、はたまた自分が気づいていない欠点があるのではないか等々、どんどん不安が湧いてくる。
その内、自分がいいと思う点が果たしてなんなのか、何をもってこの構図をきれいだと思うのか、そもそも自分の作品なんてとっくの昔に誰かがやったことの二番煎じで、コンテストに出すほどではないのではないかなんて気分にもなる。
作品が完成しても、不安は尽きない。
これよりもっといい調整があるのではないか、タイトルももっといいものがあるのではないか、もっと時間をかけてしっかり考えてもいいのではないか……
無限にアイデアが湧いてくると言えば聞こえはいいが、作品を提出してもそんなだからたちが悪い。
誰か正解を教えてくれ~
写真を征服する
6、7年写真に取り組んできたにしては恥ずかしい話なのだが、今日初めて自分の撮った写真を印刷してみた。
理由はフォトコンテストに応募するためであり、他の人の体験談を参考にしながら、紙を買ってきて、プリンターの設定をして、余白の設定をして…などと四苦八苦しながらやっていたのだが
いざ印刷された「生の」写真を見てみると、やはり労力に見合うだけの「よさ」があった。
まず、光を当てられるのである。
何を当然のことと思われるかもしれないが、ずっと画面から発される光で写真を捉えていた僕からすると、光の当たり方によって写真の印象が変わるというのは凄く大きな発見であった。
また、写真と紙の種類に相性があることや、余白の取り方でアピールができるということも身をもって知ることができた。
特に前々からコンテストに出したいと思っていた作品が、理想的な形になって現れた時には、本当にこれまで撮った作品をすべて印刷してやろうかと思ったりもした。
でも、何より大きかったのは、征服感であった。
これまで全く考えていなかったのだが、作品を形にすることで、急に写真という趣味が1つの最終点まで行きついたように感じた。
撮って、調整して、形にするのが写真だと言われる理由がよく分かった。
これからはもっと味わい尽くしてやる。
いい写真とは何か?
僕は高校時代から、旅先や出先にカメラを持って行って写真を撮る、いわゆる「写真が趣味の人」だったのだが、最近あることに悩んでいる。
それが「いい写真とは何か?」という問いである。
この悩みを持ったきっかけは2つあって、1つがTwitterでの写真投稿で、なぜか分からないが昔よりもらえるいいねの数が下がってしまったことだ。
そしてもう一つが、友達に「いい写真撮れた?」と聞かれて、いい写真とは何を意図しているのかと疑問に思ったことである。
自分の中では、昔より写真の腕もレタッチの腕も格段に上がり、またテーマ性も明確になっているはずなのに、と思うのだが…
Twitterで、インフルエンサーが上げている数百いいねが付いている写真よりはいい写真ではないかと思うのだが…
悔しいので5年前の一枚、3年前の一枚、最近の一枚を載せておく。
是非見ていってください。