分からないを言語化したい

小学生を教えていると、そこそこの頻度で分からないと言われる。

僕自身も分からないことによく出会うし、世の中のほとんどの人は毎日分からないことに出会ってるのではないかと思う。

しかしながら、なぜ分からないのか、何が分からないのか深く考える人は少ない気がしている。

せっかく疑問に突き当たっているのに勿体ない…

僕に何ができるのか考え、とりあえず自分なりに分からないを分析してみることにした。

これを読んで、ぜひ皆さんも分からないについて考えてみてほしいと思う。

分からないの原因1つ目としてまず挙げたいのが、「なにか前提知識が足りてない」である。

面積を求める問題で、その公式が頭に入っていなかったり、英語の長文読解で英単語が分からなかったりがこれに当たるだろう。

この場合は前提知識を補うことによって解決する。

次に2つ目であるが、「考え方が分からない」というのがあるように思う。

例えば、芸術の見方であったり、哲学者の書いた本を読んだりするときなど。

こういう場合はその場で理解することは難しく、いくらか時間が経ってふとした瞬間に「あぁ」と急に理解出来ることが多い、と個人的には思う。

ゲームで経験値が溜まって、急にレベルが上がる感じ。

で、最後の3つ目だが、「考えるのを放棄した分からない」がある。これは確実にある。

疲れた時やめんどくさくなった時など、つい言ってしまうやつである。

これは本当によくない。

なぜなら、思考停止に陥って、そこから進めなくなるからだ。

しかも楽だから癖になる。

実際、癖になって、全く成長できない生徒を多数見てきたし、成長できない生徒の大半はこれだと思う。

これを減らして、いかに上の2つに持っていくかこそ、自分が成長する鍵であり、また他人を伸ばす秘訣でもあると僕は思っている。

しらんけども

米津さんへのファンレター(案)

米津さんのライブが当たった。

脊オパ、HYPE、変身と当たっており、もし参戦できれば実に4回目である。

マジで嬉しい。

米津さん、毎回生きる希望を下さって本当にありがとうございます。

嬉しすぎて、ということはなく前から、ファンレターを出そうと画策しているのだが、何を書けばいいのかわからない。

これまでの感謝を伝えるために、ありがとうございますを100回くらい書いてもいいのだが、流石にびっくりされるだろうし、まずそもそもソニーの人にブラックリストに登録される可能性すらある。

かと言って、あんまりありきたりなことを書いても一括りにされてしまうだろうし(まあそれはそれで構わないのだが)、ちょっとくらい印象に残ってほしいという気持ちもやはりある。

名前だけ5倍くらいのサイズで書くか、めちゃめちゃ風情ある文章を書くか、天才的な回文を生み出すか

あほなことを色々考えていて思ったのは、何回も感謝を伝えられるのが一番嬉しいだろうなということ。

とりあえず国試が終わったら、変身の感謝のファンレターを名前だけマジックで書いて送ろうかな。

亀として生きる

なんのために生きるのだろうかとたまに思う。

もちろん、人とのつながりを失いたくないだとか、米津さんをずっと追っかけていたいだとか、もっといろんなことを知りたいだとか、あれがほしいこれがほしいだとか、自分なりに色んな理由があるのだが

果たしてそれら一つ一つに本当に意味があるのかと考えてみると、この広い世界の中で、ちっぽけな自分自身の行動なんてなんの意味も持たないだろうなと感じてしまうのだ。

だからこそ、昔は何か大きなことを成し遂げて名を残したいとか思っていたが

世の中すごい人が多すぎることに、最近ようやく気づいてしまった。

医学でも写真でもどんな分野においても、とにかく自分のはるか上を行く人が大勢いる。

今までなぜ何かを成し遂げられると思っていられたのか不思議なくらい、みんなすごいのだ。

先輩の姿はすでに見えないし、同期もロケットの如く飛んでいくし、後輩はいともたやすく僕を追い抜いていく。

毎日コツコツ問題を解きながら、ただボケーっとこのような考えにふけってるのが情けなくなる。

しかしながら、とにかく今の僕にできることは国家資格を取ることしかないので、ひたすら亀のようにしぶとくのろのろと生きていく。

亀にしか見つからないチャンス、ないかなぁ。

復活

ここ数日間ブログのあり方について考えていた。

というのも、最近何のためにブログを書くのかが分からなくなっていたからだ。

毎日同じような日を過ごし、同じようなメモをして、後で見返した時にその一日が明瞭に思い返せるのか

読者を意識しないと言ったが、それではブログを毎日更新する意義はどこにあるのか

誰かに追われるようにとりあえず記事を更新し、形だけを取り繕うことに何の意味があるのだろうか

迷いながら書いても仕方がないと思い、数日間をおいてみたのだが、それで分かったのは、どうやら自分は数日あればなんとなく何か書きたい気分になるということだった。

昔の人が何かを感じた時それを俳句に詠んだように、数日間あれば自然と何か書きたいことが浮かんできて、それを思いのままつらつらと書く

そのスタイルこそ今の自分に向いている気がした。

というわけで、国試勉強もいよいよ佳境なので、しばらく書きたいことがある時に書くという形でいきます。

がんばるぞ

ひたすらに国試勉強

毎日が同じ日になってしまっている。

グダグダして、とにかくQBを解き、気づけば夜。

つまらないがやるしかない。

みんな乗り越えているのだから、あとちょっとこの生活を続けなければ。