深夜
午前1時10分 (※)
医学生かずの記事をほぼほぼ書き上げたが、昼寝したせいかまだ眠くない。
最近こんな日々が続いている。
遅く寝ると遅く起きることになり、必然的にQOLが下がる。
分かってはいるのだが、まあ眠くないものは仕方がないと割り切っている。
筋トレをしながら、YouTubeを見ながら考える。
この先どう生きていくべきなのか
どうやったら楽しく生きられるか
せっかく培った文章力や、ブログ・日記の影響力を無駄にはしたくない。
流行りのプログラミングやAIの分野にも触れてみたいし、お金の勉強もしたい。
色々な力が試される分野で仕事をしてみたいが、まずは下積みからだろうし、専門医を取ってから改めて下積みを始めるのは、流石に年齢的にも収入的にも厳しい。
意外とこの先の道が限られていることを思い知る。
改めて思うが、バックアップがないと大きく道を踏み外すのは難しい。
ましてや家族の思いや、他に大事なものを抱えていれば。
10年がかりの起業を考えるなど、まず無理である。
失敗した人に対する社会的な目、やりたいことをして生きる人に対する執拗なバッシング、目立つ人にはアンチが集まる。
いつからこんな国になってしまったのか
元からこんな国で、その事実にようやく気が付いたのか
結局どこの国も似たようなものなのか
・・・いくら考えても事実は変わらないし、なんだかんだ言ってもこの国が好きなのである。
せめて自分だけは、目の前を颯爽と駆け抜けていく人に、快く道を指し示せる人でありたいと、今日も心に刻んで寝る。
※ちなみに深夜に通知が行って起きる人がいないように、朝にアップしている
本物
昨日フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」を見に行った。
まさか美術館に入るために並ぶとは思わなかったが、いざ絵を目の前にすると、並ぶだけの価値はあると感じた。
迫力があった。
色合い、繊細さ、光の加減、全てが完璧でバランスが取れた絵だと感じた。
今後絵と言われた時に、頭の中で真っ先に思い描くのはあの絵になるだろうというくらい感銘を受けた。
正直、見に行くまで全くフェルメールの絵に興味はなく、またよく見る修復前の絵を見てこれがふぇるめーる?なんて思っていたが
そんな懐疑的な考えを一瞬で吹き飛ばすほどには、やはり素晴らしかった。
解説を見てみると、ちょうど昨年修復が終わったそうである。
道理であんなに普通の絵に見えていたわけだ。
他の絵も修復された状態で見てみたいと思った。
まあ、どれだけ長く書いたところで、僕の言葉では到底語りつくせないほど美しいので、ぜひ見に行ってみてほしい。
美術館に行く日
アクセス数が日に日に増えている。
昨日は100人以上がアクセスしてくださったらしい。
びっくりしてうきうきして踊っている。
素人の成人男性が踊っていても誰も得しないので、体の動きには反映していないが。
そんなことはさておき、今日は美術館に行く予定だ。
こちらも心が踊る。
などと、適当に書いていたら、1人で行きたいか2人で行きたいか、みんなで行きたいかの境目が気になった。
例えば、僕の場合であるが、美術館や旅行は、気心の知れた人としか行きたくないが、映画鑑賞であれば、普通の友人とでも行く。
ボウリングなら大勢で行く印象で、ご飯は場合による。
・・・単にどこに重点を置くかの違いかもしれない。
友達のペースに合わせるのが苦痛ではないか・人の目が気になるか・大人数の方が楽しいかのバランスが、人それぞれ違うのだろう。
こういう風に、考えていたことが、いざ書いてみると意外と単純で拍子抜けすることがままある。
いつもならパンチを求め、もう少しもがくところだが、まあ今日は美術館に行く日だ。
多分読者も許してくれることだろう。
追記
タグを作っている途中に思いついたが、もがきリストとして下記の様なものを考えた。
ぜひ考察してみてください。
・ワクワクはどこからくるのか ・人のタイプとバランスの関係性 ・文章の内容の濃さとは ・期待感がどこにあるのか ・読者に許されるとは ・踊ると躍る
他人の文章を味わう
今日初めて他人のブログを読んだ。
正確に言えば、初めて、自分の中でこれまで実体を持たなかった他人の、ブログを読んだ。
これまで、既に顔と名前を知っている有名人のブログはいくつか見たことがあったし、僕の大好きな米津玄師さんのブログについては当然のように全記事読んでいたが
(そろそろ僕がどれだけ米津玄師さんが好きか知らない読者も出てくると思うので、ここに愛を語った記事を引用しておく)
顔も名前も知らない初めましての人の内面に、ブログを通して侵入するのは初めての体験だった。
見たこともない、他国の食材を生で食べているような感覚だった。
本や新聞など、複数の手によっておいしく料理されたような文章や、情報を伝えるために書かれたぱさぱさのカロリーメイトの様な文章とは違って
それぞれの良さがにじみ出た、形がいびつだったりもするが、みずみずしく生を感じられる文章
それぞれに特徴があり、作り手の顔や性格まで見えてくる気がする。
僕の文章はどんな風に思われているのだろうか。
こんな少々ゲテモノ感のある文章から、見るからに美味しそうな文章まで、色々な種類の文章を書ける、大きな畑を持った人間になりたい。
身の丈に合わせて生きる
ものを買うときに、何を思ってそれを買うと決めるか?
特にそれが娯楽の類であれば、ひたすらに悩んでしまう。
まず娯楽であるため、無くても生活はできることから、買わないといけないという選択肢はない。
ただ、将来遊びに使う時間もお金もない&今人生経験を積んでおくべきという視点から考えると、自分の好きなことに使いたいとは思う。
で、好きなことを考えた時に、旅や写真、グルメ、石、米津玄師などこれまた色々あるわけであるが、この優先順位が中々に難しい。
お金が無尽蔵にある訳ではないから、全てやりつくすわけにはいかず
かといって、全部中途半端にかじるのは面白くない。
どれだけお金がかかっても、行きたいところ、撮りたい図は妥協したくないし
心惹かれるものは絶対に食べたい。
石も欲しいものを追い求めたいし、ライブグッズやアルバムも全部持っておきたい。
でもどう考えても今の時点で無理なことは山ほどあるし、結局どこかで妥協せざるを得ないのだ。
となったら、今度はどこで妥協するのかが問題となる。
ライブグッズは一つで十分と考えるか、旅行はレンタカーでいける範囲に絞るか
同じアーティストのカットした別の石で妥協するか、旅館の割高だけど美味しい朝ごはんをあきらめるか
・・・どれだけお金を持っていようが、みんなどこかで妥協してるんだろうだな。
書きながら、悟ってしまった24の昼。
オスキーのお勉強
もうすぐPost-CC OSCEの受験である。
Post-CC OSCEというのは医学部6年生が受ける試験で、ざっくり言えば、診察の流れを試験官の前で再現して、医師になってよいかを決める実技のテストなのだが
落ちるとややこしいので、しばらく(と言っても数日程度であるが)お勉強をしなければならない。
で、勉強法や攻略法はネットで調べれば沢山出てくるから、それに頼ってもらうとして(実際僕も頼っているし、有料講義を取る人はほとんどいないと思う)
試験勉強外で重要だと思うことがあった。
それが、ポリクリでの経験である。
この理由を説明すると、Post-CC OSCEは問診~アセスメントまで一連の流れをスムーズに行うことが求められるのだが
ポリクリで何回か問診を取った経験があると、聞きたいことがすぐに出てくるようになる。
逆に、あまりそういう経験がないと、聞きたいことに詰まってしまって思い通りに進まなくなるだろうから
個人的には、一度は沢山問診を取らせてくれるような科に行ってみるといいと思った。
でもまあ、そんなことを書いていて落ちたら嫌なので、今回はこの辺りで。
振り返る
医学生かずの呟きの過去のネタ帳を振り返ってみた。
サイトを作成した当初に作ったもので、ひたすら記事にしたい自分の経験や勉強法などを書きだしたものであるが
見返してみると、意外と今と考えていることが変わらなかったりする。
この内容はこの前日記にしたなとか、この内容の記事つい最近書いたなとか
でも、何も変わっていないかと言われると、そんなこともない。
昔と比べて、確実に多くの人に記事を読んでもらえるようになった。
これは、内容が同じでも、どんな人に何を届けたいか、しっかり考えて記事を作るようになったからだと思う。
そして、それができるようになったのは、サイト運用やポリクリ、その他自分の行ってきた活動によるものだと考える。
2年も経てば、実感がなくとも意外と成長している。
自分のしてきた行動を肯定するためにも、またこれからどう生きていくか考えるためにも、定期的に振り返って、過去の自分と今の自分を比較することが大切だと感じた。